熊野街道の路線変更
2023年11月20日
その他
イベントの関係で、猪ノ鼻水平道について少し調べています。猪ノ鼻水平道は、明治時代になり馬越峠の迂回路として開削された道です。小山浦から半島を海沿いに迂回し、天満浦を経由して北川橋に出ます。荷車が通行できるように道幅が広く、平坦な道が続きますが、馬越峠に比べると距離が長くなります。
猪ノ鼻水平道ができたのは、明治時代の熊野街道の第一次改修によります。この第一次改修について調べていると、気になる記述がありました。第一次改修に至る前の熊野街道の路線変更についてです。
尾鷲市史によると、
「明治13年(1880)3月1日、従来の八鬼山越えの熊野街道は路線が変更され、松阪より矢の川峠を越え、南牟婁郡御船村に至る線を熊野街道とし、一等道路に格付け、県費支弁道路に編入した。」とありました。
一方、海山町史によると、
「明治13年(1880)熊野街道は二等県道に位置づけられ、明治17年の馬瀬村地誌に、熊野街道―県道二等ニ属ス、村ノ東方三浦界ヨリ西隣上里村界ニ至ル、長三拾町四拾壱間五尺、幅二間とある。」
「明治19年(1886)熊野街道の路線が変更された。従来の成川~田丸間を、松阪新町を起点とし成川を終点にあらため、途中八鬼山越えを矢の川越えに変更し、仮定県道に昇格のうえ、同年から車道に改修することになった。」とあります。
熊野街道(熊野古道伊勢路)は明治時代に、田丸(玉城町)~成川(紀宝町)から松阪新町~成川に路線が変更されました。しかし、その時期が明治13(1880)年か、それとも明治19(1886)年なのか、尾鷲市史と海山町史では少し違いがあります。
そこで、三重県統計書を調べてみました。国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも閲覧できます。
まず、明治13年の統計書です。「伊勢街道山田浦口町追分」が起点のようです。次に田丸が来ています。
『三重県統計書』明治13年,三重県,明11-45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/807411 (参照 2023-11-20)
次に明治18年の統計書です。「自山田 至田丸」となっています。
『三重県統計書』明治18年,三重県,明11-45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/807416 (参照 2023-11-20)
そして明治19年の統計書です。「自松坂新町 至相可」となっています。よって、起点が松阪新町になったのは明治19年が正しいとみられます。ちなみに、明治19年の統計書で「熊野街道」の右上に「同」とあるのは「仮定県道」のことです。『三重県統計書』明治19年,三重県,明11-45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/807417 (参照 2023-11-20)
統計書だけで、熊野街道の路線が変更になったのは明治19年だと断言するのは難しいかもしれませんが、とりあえず今のところ明治19年かもしれないと思っています。他の公文書を確かめてみたいです。そもそも、なぜ起点が変更になったのか、尾鷲市史・海山町史を読むだけではわかりませんでした。
また、猪ノ鼻水平道の工事は明治19年4月に着工、明治21(1888)年春に竣工しました。このことについては尾鷲市史・海山町史に違いはありません。
以上、明治時代の熊野街道の路線変更についてでした。お読みいただきありがとうございました。
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