八鬼山越え明治道について
2024年9月21日
その他
11月3日(日)開催の知られざる熊野探訪ツアー「八鬼山越え 明治道」の申込受付が始まりました。明治道は、八鬼山の山頂付近から三木里側にかけて、明治28(1895)年に開削された道です。世界遺産に登録されている道(江戸道)と同じく石畳が残り、江戸道と比べると少し緩やかな道です。近年は未整備の状態が続き、通行が推奨されていませんでした。今回は尾鷲藪漕隊の皆様のご協力のもと整備を行い、ツアーを開催します。
このツアーに向け、明治道について少し調べています。が、あまり情報がなく少々困っています。尾鷲市史には、八鬼山の明治道について以下のように書いてあります。
「また矢浜村から名柄村への八鬼山越えの道も、三木峠から名柄村へは尾根ぞいの長い道であったため、名柄村では明治二八年沓川ぞいの新道をつくる計画をたて、そのため頼母子講によって工事費をねん出した。この道も車道ではなかった。」
とあることから、名柄村が主導して明治道を開削したようです。この記述の根拠となる資料が何か気になるところです。
これ以上の情報がなく、名柄村がこの時期に明治道を開削した理由や開削にかかった費用や日時、その後どれくらいの人が通ったのかなど、詳細が不明です。個人的には、明治10年代から20年代にかけての「熊野街道の第一次改修」が何か関係しているのではないかと思っていたのですが、年代的にこの改修より少し後なのであまり関係なさそうです。「熊野街道の第一次改修」の経緯は以下の通りです。
明治12(1879)年 三重県は「道路取締規則」を公布。翌13年3月1日から実施。
明治13(1880)年 熊野街道は二等県道に位置づけられる。
明治18(1885)年 石井邦猷三重県知事が南・北牟婁郡を視察。
明治19(1886)年 熊野街道の路線変更。成川~田丸⇒松阪新町~成川に改める。また、八鬼山越えから矢の川峠越えに変更。
明治19(1886)年4月~明治21(1888)年3月 熊野街道第一次改修(猪ノ鼻水平道の工事。矢の川峠越えが矢浜~二つ木屋~大橋~七曲り~小坪~矢の川峠で一応車道として完成。)
※熊野街道の路線変更は尾鷲市史では明治13年となっていますが、三重県統計書を見る限りおそらく明治19年です。
明治19~21年にかけての熊野街道の工事の主な目的は、車(荷車)が通る「車道」を作ることです。八鬼山の明治道は車道ではないので、この第一次改修とは関係なく、ふもとの名柄村の人が中心となり作ったものと思われます。山頂から名柄村・三木里にかけては、矢浜から山頂にかけてよりも急な道が続きます。これを解消するために少し緩やかな道を作ろうということになったのかなと思います。
このように、明治以降の熊野古道伊勢路は、改修や路線変更の詳細など、わからないことが多いです。市史・町史によって細かい部分で記述が異なっており、どれが正しいのか判断しかねています。近代(明治時代以降)の熊野古道伊勢路についての学術的な論文もないに等しい状態です。近代になり熊野古道伊勢路はどのような経緯・要因であまり使われなくなっていったのか、はっきりとわからない部分はまだ多いのではないかなと思います。
八鬼山の明治道についても引き続き調べていきたいと思います。何か資料などあればご教示いただけますと幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
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※今回のツアーでの整備はあくまでも暫定的なものですので、通常は世界遺産に登録されている道(江戸道)を歩くことを推奨します。