知られざる熊野探訪ツアー「八鬼山越え 明治道」を開催しました!

2024年11月5日

イベントレポート

知られざる熊野探訪

 11月3日(日祝)に知られざる熊野探訪ツアー「八鬼山越え 明治道」を開催しました!前日かなり雨が降っていましたが、当日は晴天で、絶好の山歩き日和でした。

★明治道とは?
 明治時代になると、東紀州地域では道路改修や新たな道の開削が行われるようになりました。八鬼山では明治28(1895)年に三木峠から名柄村にかけ、沓川沿いに新たな道が開削されました。これを「明治道」といいます。一方、世界遺産に登録されている道は「江戸道」ともいい、江戸時代に現在の石畳が整備されたと考えられています。明治道も江戸道と同じく石畳が残りますが、世界遺産には登録されていません。
 明治道は名柄村の人々が主導して開削しました。三木峠から名柄村の江戸道は尾根沿いに長く、矢浜側の江戸道より険しい道でした。そこで、江戸道にかわる緩やかな道を作るため、名柄村では月50銭の頼母子講をつくり、工事費をねん出しました。

 世界遺産登録部分の江戸道を歩かれたことがある方は、今回の明治道はだいぶ歩きやすい道だと感じたのではないかと思います。それほど緩やかな道です。

三木里駅にて

 熊野古道センターの駐車場に集合し、大曽根浦駅からJRで三木里駅まで移動します。ここからスタートです。今回のツアーは30名で、2班に分かれて歩きました。案内人は尾鷲藪漕隊隊長の内山佳和先生と橋本博副センター長です。三木里駅から海沿いを歩いて八鬼山へ向かいます。正面に八鬼山が見えてきます。

正面が八鬼山
籠立場。ピンクの帽子と服の方が内山佳和先生です。

 名柄一里塚手前でトイレ休憩を済ませ、いよいよ江戸道と明治道の分岐へ。明治道は真っ直ぐ進みます。石畳がきれいに残っています。ここが明治道では一番の撮影ポイントかなと個人的には思います。

明治道
ここには大きな落石があります。

 明治道で最も難関なのは、落橋した箇所です。沢を渡ることになります。今回は前日の雨で水量が多く、上から回って渡りました。※落とすのが怖くてカメラとスマホはリュックにしまったので、渡った際の写真はありません(汗)

左側が落橋した箇所

 また、明治道には13年前の紀伊半島大水害の爪痕が残っています。大きな岩が落ちてきて元の道は完全にふさがれ、左側に迂回路があります。

元々は右の方に道がありました。現在は左へ迂回します。

 炭焼き窯と思われるものもあります。明治道には、道沿いに何個も炭焼き窯跡が残っています。写真のものより、かなり大きなものもありました。この炭焼き窯がいつ頃まで使われていたのかはわかりませんが、明治道が生活道として確かに使われていたことを示すものだと思います。

炭焼き窯
明治道は江戸道と異なり、植林されておらず、自然林の中を歩きます。

 また、写真のように道が二段になっている箇所が多くあります。補修した跡です。これだけ丁寧に補修していることから、明治28年に作られて以降もかなり長期間、明治道は使われていたとみられます。

二段になっています。

 山頂に近づくにつれ、つづら折れの道になります。石畳もかなり新しいもののように思います。

 お昼休憩は荒神堂です。時間がなく、残念ながら山頂と桜の森広場には行けませんでした。申し訳ございません。山頂は大きな岩があるだけで特に眺望はありませんが、桜の森広場からは広大な太平洋が見渡せます。

お昼休憩

 ここからは下りです。前日に結構雨が降っていたのですが、石畳はかなり乾いていました。危ない転び方をされる方もおらず、無事に皆様下山できました。

 最後に内山先生は尾鷲節の歌碑の前で、尾鷲節を披露してくださいました。

「ままになるならあの八鬼山を…」と八鬼山が歌詞に出てきます。

 なんとか16時にセンター駐車場に戻ってくることができました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました!

 今回のツアーでは、尾鷲藪漕隊の皆様にご協力いただき、整備しました。ここに記して感謝の意を表します。

 明治道は通行止めではありませんが、推奨はされていません。通常は江戸道(世界遺産登録部分)を歩いてください。今回の整備も暫定的なものですので、もし歩かれる場合は自己責任となります。ご理解いただけますと幸いです。

〈 一覧に戻る