玉城町原の道標②

2024年12月14日

その他

 前回のスタッフブログに引き続き、今回も玉城町原の道標をご紹介します。玉城町原の石仏庵を過ぎてすぐ、曲がり角に写真の道標が立っていました。

 ボーっと歩いていると見逃してしまいそうな大きさです。筆者はこの道標の存在を今まで全く知らず、今回「悉皆調査でも漏れてそうな道標や石仏を探すぞ!」という頭で歩いていたため、偶然目に入りました。良かったです。

正面
右面
左面
裏面

 正面に「南 国束寺/内城田 道」、右面に「東 田丸凡一里」とあり、裏面には「北」とあったのですが、その下が読めませんでした。左面には「東原青年」と書いてあります。
 この道標について何かわからないかと『熊野参詣道伊勢路調査報告書Ⅰ』『玉城町史』『三重県石造物調査報告Ⅱ~南伊勢地域~』を確認してみましたが、残念ながら特に何も書いていませんでした。この道標は江戸時代のものではなく、明治以降に建てられたと考えられるため、調査対象ではなかったのかもしれません。
 なぜ明治以降に建てられたとわかるかというと、左面の「東原青年」が「東原」の青年団を指すと思われるからです。青年団ということは江戸時代ではなく明治以降ということになります。青年団が建てた道標は、熊野古道伊勢路であればツヅラト峠の紀北町側登り口付近にあります。ツヅラト峠の道標は明治45(1912)年に赤羽青年団第七支部が建てました。今回の発見で、明治以降は青年団が道標を建てることも結構あったのかもしれないと思いました。

ツヅラト峠の紀北町側登り口の道標

 また、この道標は原位置のままか、移動していたとしてもそれほど大きくは移動していないのではと考えています。それはこの道標の現在地は右面「東 田丸凡一里」とあるように田丸からおよそ1里(約4㎞)の場所であり、正面「南 国束寺/内城田 道」とあるようにここから南へ行くと国束寺・内城田(現度会町)へつながるからです。

 位置関係は地図の通りです。結構至近距離に道標がいくつも建てられています。今回発見した道標は、交差点にあることがわかります。「東南北」の向きもあっているため、ほぼ移動していないと思います。

 そして、今回発見した道標も国束寺(くづかじ)を案内しています。前回のブログの国束寺道標のように、西国巡礼の巡礼者に国束寺へ立ち寄ってもらうことを目的に建てられたものではないかもしれませんが、明治以降も国束寺への参詣者があったということがこの道標からわかります。

以上、道標のお話しでした。お読みいただきありがとうございました。

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