続・玉城町原の道標

2025年1月16日

その他

 12月14日のスタッフブログで原の石仏庵近くにある、近代のものとみられる道標をご紹介しました。このとき、壁側の「北」と書いてある面が読めなかったとしていましたが、他の職員が撮影してくれた写真で読むことができました!

 「北 相可駅 凡一里」でした!「相可駅」とあることから近代のものであることは確定しました。これで解決したと思ったところ、地図を見てみると…

 相可駅って道標がある地点からだと北は北だけど、どちらかというと北西なような…と微妙だなと思っていたところ、「北の方角だと多気駅では?」と指摘をいただきました。

そこで多気駅と相可駅について調べてみたところ、以下の通りでした。

明治26(1893)年 参宮鉄道の津駅から宮川駅開通時に相可駅として開業。
大正12(1923)年 現在の相可駅が開業したことにより、相可口駅に改称。
昭和34(1959)年 多気駅に改称

 ということで、現在の多気駅は元々相可駅だったということがわかりました。この道標が指す「相可駅」とは現在の多気駅を指すと思われます。そうだとすると、この道標が建てられた時期は明治26(1893)年~大正12(1923)年の間に絞ることができます。大正時代のものという可能性も出てきました。

 もう一点、この道標がある地点で気になっていたのは、北への道が途中で途切れていることです。結構不自然に途切れています。この道標から北には田んぼが広がっており、地図を見ていると圃場整備したのかな?という印象があります。国土地理院の地図で、1953年に撮影された空中写真を見てみると、この道は本来もう少し伸びていたようです。

 また、玉城町史下巻(645~648頁)では大正初期の玉城町の道路状況について書かれていました。それによると「相可道」という道があり、「大字東原茶屋にて和歌山別街道(※現在の県道13号線)に分岐して北に向かい耕地中を直進して西外城田村大字土羽界に入る。延長拾六間、巾壱間の県費補助里道にして平坦なり。」という道だったとあります。この「相可道」が道標から北へのびる道にあたるのではと思います。現在は途切れてしまっていますが、田んぼの中を進んで多気町土羽方面へ向かっていたようです。土羽より北には多気駅があることから、この「相可道」をたどって「相可駅(多気駅)」に行けるということをこの道標は示していたと思われます。

 また、玉城町史には「国束道」という道についても記述がありました。それによると、「大字東原区にて和歌山別街道(※現在の県道13号線)に分岐し坂道を登りて国束寺に至る。延長参拾四町内山道拾八町の里道なり。」とあります。これは現在、県道13号線を渡って突き当たりにある国束寺道標2基がある地点から国束寺へ向かう参詣道のことを指すと思われます。江戸時代からの道が近代以降も整備され、国束寺への参詣者が多くいたと想像できます。この道標については12月11日のスタッフブログで紹介しています。

原の国束寺道標2基

 国束道が江戸時代からあったように、相可道も近代以降の道ではなく、江戸時代から存在していたのではと思います。その場合、江戸時代から原(東原地区)は熊野街道(熊野古道伊勢路)と北の相可道、南の国束道との交差点であったと考えられます。実は、原にある石仏庵は嘉永6(1853)年に出版された『西国三十三所名所図会』では「原大辻観音庵」とされています。この「大辻」とは何を指すのか、文字通りであれば「辻」つまり交差点があったということになります。しかし、そのような大きな交差点はないという印象だったので、名前の由来が謎でした。今回の道標から考えると、この「大辻」は原地区の「熊野街道」「相可道」「国束道」との交差点を指すのではないかなと思いました。推測の域を出ないですが、やはりこの「大辻」は何らかの交差点を指すのではと思います。

石仏庵
相可道は今は途切れていますが、北の多気町土羽へ抜けられた道でした。

以上、玉城町原の道標についてでした。

お読みいただきありがとうございました。

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