干支
2023年12月6日
その他
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2023年も残り1ヶ月を切りました。来年は辰年ですね。普段の生活で干支を気にするのは、この時期くらいかと思いますが、江戸時代は年月日を表すのに干支を使っていました。
現在、「干支」というと「子、丑、寅・・・」の「十二支」を指すことが多いですが、本来は「十干」と「十二支」を組み合わせたものを指します。「十干」とは、「甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)」のことです。十干と十二支を組み合わせ、「甲子(きのえね)」「庚申(かのえさる)」などと表します。
(以下、「子、丑、寅…」のことを「十二支」、十干十二支の組み合わせを「干支」と呼びます)
干支は全部で60通りあります。1巡するともとの暦に還るので、「還暦」といいます。ちなみに今年の干支は「癸卯(みずのとう)」で、来年は「甲辰(きのえたつ)」です。
それでは実際に江戸時代の古文書に書いてある日付をいくつか見ていきます。
まず当センター所蔵の道中日記を見てみます。表紙ですが以下のように書いてあります。
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左側の道中日記は
「安永八亥歳
西国三拾三所巡礼日記
四月六日出立六月九日帰国」
右側の道中日記は、
「文久三年 越後国魚沼郡
遠州秋葉山
伊勢御参宮
大和七在所
西国三十三所
四国金毘羅山
北国下り 道中記
亥七月二日立 笹花定(右衛門)」
と書いてあります。
安永八年は1779年です。「亥歳」つまり「亥年」と十二支が書いてあります。
文久三年は1863年です。こちらも「亥」と十二支が書いてあります。
続いて、江戸時代に出版された本の奥付を見ていきます。
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左側は、
「安永二巳年正月吉日」
とあります。こちらは「巳年」のみです。
右側は、
「文化七年庚午八月既望」
とあります。こちらは「庚午(かのえうま)」と干支を書いています。
最後に尾鷲市などに残る古文書を見てみます。
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![](https://i2.wp.com/kumanokodocenter.com/wp-content/uploads/2023/12/古文書4月分78-scaled.jpg?ssl=1)
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![](https://i2.wp.com/kumanokodocenter.com/wp-content/uploads/2023/12/第9回資料⑳修正.jpg?ssl=1)
左から
「文化六年巳六月」
「九月廿七日」
「正月廿七日」
「未三月」
と書いてあります。
このように結構バラバラであることがわかるかと思います。特に日付だけの場合・十二支と日付だけの場合は、後世の私たちから見ると、何年に書かれたものか正確にはわかりません。内容などから推測します。いくつかの古文書と一緒に綴じられている場合は、他の古文書からも年を推測できます。
また、十干は記さず十二支のみを記す場合は多いですが、十二支は記さず十干のみを記すということはありません。こういったことも古文書解読のヒントになるかと思います。
江戸時代はこの他にも方位や時刻も十二支を当てはめて表していました。現在の私たちの生活よりも十二支が深く浸透していたのです。
以上、干支についてでした。お読みいただきありがとうございました。
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