特別展示「望郷-潮騒が奏でる尾鷲の浦村―」

ロビー展示

過去の企画展示

開催期間 令和5年10月14日(土)~12月24日(日)
休館期間 会期中無休
開催場所 展示棟ホール
入場料 入場無料

 昭和29(1954)年6月20日、北牟婁郡尾鷲町、須賀利村、九鬼村、南牟婁郡北輪内村、南輪内村の1町4村が合併して誕生した尾鷲市。東側は熊野灘に面し、西側は紀伊山地の山塊が沿岸部まで迫り、そのまま海へと沈降、複雑な入り江リアス式海岸を形成している。天然の良港として古くから水産業が発達し、風待ち港としても機能を果たし、海運業も発展してきた。このような地形の恩恵を受け、明治初年(1868)の1町4村(現尾鷲市)には23の浦村があった。しかし、時代とともに浦村の住民はより住みやすい環境へと移り住み、住む人がいなくなったいわゆる廃村となった集落跡が点在している。
 本展では、すでに廃村となった「元盛松(もとさがりまつ)」「頼母(たのも)」「元行野(もとゆくの)」「元須賀利(もとすがり)」の各集落について、かつてにぎわいをみせた頃の集落の歴史や風俗を文献・資料から紐解くとともに、最新の調査をもとに集落跡の状況や残された遺構から読み取れることなどを紹介し、さらに写真や動画を通して郷土の景観を再認識していただく展示とする。

【各浦村の歴史概要】
①盛松浦(元盛松)
 慶長6(1601)年の検地の際には、「下松(さがりまつ)浦に27戸」と記録され、古くからこの地に集落として成立していたことがわかる。しかし、外洋に面したこの地は荒磯のため漁港として発達することがなく、また電気や水の利便性の悪さから昭和3(1928)年には現在の三木浦地区湾奥のコノハ地区へ全戸移住した。

②頼母
 慶長年間(1596~1615)、南島町道行竃(みちゆくがま)から4人が移住したのが古い記録として残る。この地では製塩をはじめたといわれ、天保3(1832)年公儀の命により、紀ノ文三が描いた「木本組全図」には頼母竈と記載されている。その後、昭和43(1968)年までに人が暮らしていたという記録がある。

③行野浦(元行野)
 慶長年間(1596~1615)の検地帳には寺、庄屋、民家など9軒あったと記載され、天明3(1783)年の飢饉の折、紀州藩による尾鷲の浦村の救済措置の際、元行野を含む行野浦には18戸181人が住んでいたとの記録が残る。外洋に面したこの地は安定した船着き場を設けることが出来ず、享保9(1724)年から現在の小字松本地区へ移住をはじめ、完全に移住が終わる昭和中期までおよそ250年かかった。

④須賀利浦(元須賀利)
 国の特別天然記念物に指定されている須賀利大池の湖畔に建つ社護(しゃご)神社付近から鎌倉期の土器片が出土していることから、この頃に人々は住んでいたと考えられる。同じくしてこの頃、塩をつくり神宮へ奉納していたといわれ、御厨(みくりや)として機能していた。天保10(1839)年完成の『紀伊続風土記』に元須賀利の記載、また『須賀利浦方文書』には文化4(1807)年元須賀利と表記されていることから、この頃にはすでに人々は移住していたと考えられる。

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