水大師②

2022年7月21日

イベントの舞台裏

再び水大師について書きたいと思います。水大師のお堂の裏手に石碑・地蔵群・弘法大師像があります。今回は石碑と地蔵群についてご紹介します。

まず、石碑です。この石碑は天保10年(1839)から100年を記念して建てられたもので、水大師の由来が書いてあります。お堂の前にある説明板と同じ内容です。石碑には「水大師縁起」として次のように書いてありました。(旧字は新字に改め、適宜読点を打っています。)

当曽山ニ仏休場ト称スル地ア□(※「リ」か「ル」)、伝ヘ言フ、昔時弘法大師加持ノ霊場ナリト恒ニ清水湧出シ、旱天ト雖モ枯ルルコトナシ、然ルニ天保十年ニ至リ当村前田清蔵ナルモノ平素大師信仰ノ折柄、一夜枕上ニ白衣ノ僧来リ、仏休場ニ霊水アリ、信心ヲ凝ラシ之ヲ掬用セバ宿痾平癒スベシトノ霊夢ニ拠リ該地ニ到レバ、果シテ清水ノ流出スルヲ見ル、因テ一週間参籠、其水ヲ服用スルニ夢示ノ如ク苦痛ヲ免レシヨリ、之ガ報恩ノ為堂宇ヲ建立シ石像ヲ彫刻シ、命日廿一日ヲ以テ入仏式ヲ行ヒ益信仰セシガ、遠近ノ老若相伝ヘテ参拝参籠スルモノ多ク、不治ノ病症モ平癒スル等霊験亦少カラズ、仍テ茲ニ百年ヲ紀念シテ此碑ヲ建立ス

水大師は元々弘法大師由来の霊場で「仏休場」と呼ばれていました。天保10年(1839)に前田清蔵という人が、枕元に白衣の僧が来て、仏休場の霊水を飲めば病気が治るという夢を見たため、実際に現地に行くと、清水が流出していました。よって一週間参籠し、その水を服用すると、夢の通りに苦痛をまぬがれました。この恩に報いるため、堂を建立し石像を彫刻し、命日21日に入仏式を行い、ますます信仰を深めたところ、遠近の多くの老若男女が参拝参籠し、不治の病気も治るなどの霊験も少なくなく、よってここに百年を記念してこの碑を建立したとのことです。

続いて、地蔵群です。地蔵群は熊野市教育委員会・大谷大学民俗学研究会編『紀伊熊野市の民俗(総合民俗調査報告書(第14号))』熊野市教育委員会、昭和57年(1982)によると、なぜ建立したのかなどの伝承は不明だそうです。しかし、二つの石像と灯籠は年が書いてあるのがわかりました。

「聖観音菩薩」と書いてある石像は元治元年(1864)とありました。また、堂の手前の道端に一つだけポツンと「延命大地蔵菩薩」という石像があります。こちらも元治元年(1864)でした。元治元年は最幕末です(1867年に大政奉還)。おそらくこの二つの石像は同時に建立されたものと思われます。

また地蔵群の脇にある灯籠には「嘉永」とありました。嘉永は1848‐1854年です。訪問した日は少し薄暗かったので、年月までは読めませんでした。二つの石像と灯籠は水大師が成立して以後に建立されたものということがわかります。

地蔵群のうち、赤い前掛けをしている右四つの地蔵は、見た目は「聖観音菩薩」などの石像より古い感じがします。水大師ができた天保10年(1839)より前のものであれば、水大師が成立する以前から、この場所が人々の信仰を集める場所だったといえるかもしれません。

長々と書いてしまいましたが、水大師については以上になります。お読みいただきありがとうございます。

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