ロビー展「クローズアップ展示品~土器のおいたち~」

過去の企画展示

開催期間 令和4年4月8日(金)~5月31日(火)
休館期間 会期中無休
開催場所 展示棟ロビー
入場料 無料

クローズアップ展示品~土器のおいたち~

※文章の内容は2ページの展示内容のパネルと同じものです。他言語で閲覧の方はサイト最上部のSelect Languageにて言語を切り替えてご覧ください。

この展示室の一角にひっそりと土器が置かれています。あまり詳しい説明がされておらず、見学者は「?」のまま通り過ぎていきます。果たして熊野古道に関係があるのか。詳しい方は、「熊野古道ができる前の話だよな」という感想を持たれると思います。そんな不遇な土器たちの素性をご紹介し、なぜ展示されているのかを解説していきたいと思います。また、これを機会に考古学に興味を持っていただけると幸いです。

 まずは土器を展示しているケースの奥、道瀬遺跡の土師器(はじき)と須恵器(すえき)をご紹介します。そもそも、土師器と須恵器とは何か。須恵器は、ろくろで成形し非常に高い温度で焼かれた灰色の硬い土器です。朝鮮半島から渡ってきた技術で作られました。また、同じ技法で焼く時だけ野焼きで焼いた茶色い柔らかい土器が土師器です。野焼きなど低い温度で土器を作る方法は縄文時代から続くものです。平安時代やそれ以降の時代にも残っていき、現在は土鍋として生きています。もちろん現代は野焼きではありません。

 展示している須恵器は坏(つき)・蓋(ふた)・ハソウの3点です。坏は食べ物を盛りつけて食事をするいわゆる「食器」です。蓋は坏の「ふた」です。ハソウは瓦ヘンに泉という漢字を書きます。胴の部分に穴が開いていてここに竹筒をさして急須のように液体を注ぐ器として使います。いずれも古墳時代の特徴的な土器です。

 展示品の土師器は坏の破片です。柔らかいため割れやすく大半は破片で見つかることが多いです。用途は須恵器と同じですが、土師器は須恵器と違い煮炊きに使えます。須恵器は硬すぎて火にかけると割れてしまうのです。こういったところが土師器の利点で、須恵器のような当時の最新技術が伝わってきても素焼きの器が生き残ったのは、そういったことが理由の一つであると思います。

 これらの土器が出土した「道瀬遺跡」ですが、所在地は旧紀伊長島町道瀬にあり、JR三野瀬駅から国道42号線を北に1.2㎞ほど行った海岸沿いにあります。平成9・10年に熊野灘臨海都市公園整備事業に伴い三重県埋蔵文化財センターが発掘調査を行いました。以前からこの地で土器が採集できることは知られていたので、遺跡があることはわかっていました。発掘調査の結果は1次調査で古墳時代から鎌倉時代の遺物が発見され、製塩炉や土製平釜が出土しました。2次調査では大量の古墳時代の土器が出土し、古墳時代にこの辺りに大きな集落があったことがわかりました。ただし、製塩炉跡は一緒に出土した遺物から平安時代後半から鎌倉時代前半と分かり、古墳時代の物ではありません。

 この製塩炉が何のための物かということですが、東紀州で塩を作り伊勢神宮へ献上していたと考えられており、この遺跡では合計4つの炉跡が確認されました。調査区内が近現代の削平を受けていたことを考慮すると、割と大きな規模で製塩を行っていたようで、伊勢神宮との強いつながりが考えられます。

この遺跡の所在地は、実は熊野古道伊勢路の真上にあります。古墳時代から栄えていたこの地を含めた周辺地域の物流が、伊勢神宮を中心に海路だけではなく陸路も形成していったと考えられるのです。

その陸路が熊野古道伊勢路の原型となったかもしれないということで、これらの土器を展示しています。

展示している縄文土器は、熊野市の個人の敷地内から工事の際に出土した縄文土器です。縄文時代中期の里木Ⅱ式土器と呼ばれるものです。器の口が膨らんだ長いバケツのような形のものが多く、縄の模様は細くて目立たず、細い竹を半分に割ったもので線刻してあるのが特徴です。土器が出土した遺跡は中ノ茶屋遺跡です。

土器自体は珍しいものではありませんが、特筆すべきは展示品にもあるように「ムラサキエノコログサ」と数種の植物種子と一緒に発見されたことです。土器と一緒に確認されたものは、柱穴・焼土・ピンポン玉大の種子の塊だったそうです。自宅に穴を掘っていたところ発見されたそうで、掘った方も考古学に興味があり、また植物にも詳しい方だったので種子をケースに入れて自宅に保存していたところ、芽が出てきたので驚いて学者の方に連絡を取ったそうです。その学者が雑草学の権威岡山大学の笠原安夫教授で、1975年「古代遺跡から発掘された数種の人里植物と雑草種子の形態、発芽、育成について」と題して日本作物学会で発表されています。教授は、「乾地生・湿地生の植物の種子が混合して集中出土している。このことから現地落下の種子ではなく、集めて食用にしていたものがこぼれたものである。」との見解を示されています。この土器は種子の年代を調べるときの指標となりました。つまりこの土器が一緒に出てこなかったらどのくらい昔の種子かわからなかったということです。

 発芽したムラサキエノコログサは、現在自生しているものよりもかなり大型に育つことがわかりました。展示コーナーに標本がありますので是非ご覧ください。大きければ当然いっぱい種が取れます。大胆な仮説かもしれませんが、エノコログサは粟(あわ)の原種ですので、当時の縄文人が穀物の農耕をしていたかもしれないと考えてしまいます。

 この中ノ茶屋遺跡は熊野古道伊勢路沿いの有馬というところにあり、縄文時代や弥生時代、それ以降の人の営みの痕跡が多く確認できるところです。古くからこの地域で多くの人々が住み往来する中で、海だけではなく陸の道も形成されていったのではないでしょうか。

 以上が展示している土器たちの「おいたち」です。展示品はそれぞれがいろいろな生い立ちを秘めています。何気なく置いてあるものにも思いをはせてみるといろいろな発見があるかもしれません。

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