企画展「演・舞・彩~伊勢型紙の魅力にせまる~」

過去の企画展示

開催期間 令和5年4月22日(土)~令和5年6月18日(日)※最終日の6月18日(日)は、大杉華桜氏(伊勢型紙彫型画会会長)が1日在廊します。伊勢型紙の実演も予定しています。
休館期間 会期中無休
開催場所 企画展示室
入場料 入場無料

展示内容

ごあいさつ
 古くから着物などを染めるために用いられてきた伊勢型紙は、三重県鈴鹿市を代表する伝統的工芸品です。美濃和紙を柿渋で貼り合わせた型地紙に、職人が彫刻刀を巧みに使い緻密な図柄を彫り抜いて仕上げます。千年以上の歴史があるとされており、寺家・白子の両地区では最盛期には300人近くの職人が伊勢型紙業に携わっていました。現代では生活様式の変化による着物需要の減少や、新しい染色技術の普及、高齢化による従事者不足などにより伊勢型紙業者は減っています。鈴鹿市では、伊勢型紙の技術を伝えていくために、後継者育成の他、新しい活用法として美術工芸品やインテリア、装飾品などに伊勢型紙の伝統技術を活かす取り組みが生まれています。
 当センターでは、2020年春、特別展示室企画展「伊勢型紙彫型画作品展~伝統に新しい風を~」を開催し、伊勢型紙の技術を美術工芸の道へ発展させ『彫型画』という分野を確立した伊勢型紙彫型画会の活動を紹介しました。今回は、前回ご紹介できなかった作品や新作などさらに多くの作品を展示します。伝統の技法を用いて丹念に彫り上げられた作品の数々を通じて、美術作品としての伊勢型紙の魅力に触れていただけましたら幸いです。また、同会会長である大杉華桜氏のご協力により、江戸時代から代々引き継がれてきた大杉家所蔵の彫刻道具や、江戸時代の型紙などの貴重な資料も展示いたしますので、併せてご観覧ください。
 最後に、本展開催にあたり、多大なご協力を賜りました子安観音寺ならびに大杉華桜氏、また作品を出展いただきました伊勢型紙彫型画会のみなさまに心より感謝申し上げます。
 令和5年4月吉日 三重県立熊野古道センター

伊勢型紙とは
 伊勢型紙とは着物の布地に文様を染める時に用いる型紙で、千年余りの歴史を有します。古来伊勢の白子は、この型紙の産地として有名で、ここで作られた型紙は伊勢型紙と呼ばれました。
 彫刻に使用する原紙「型地紙」は柿渋で数枚の精選された生漉和紙を張り合わせ、天日と燻煙により乾燥させた強靭で伸縮しない紙質で、染色工場には欠くことのできないものです。
 この地紙に文様を彫り、それによって糊を置き文様を染め出すことを型染といい、現在行われている模様染は、絞り・友禅等の手描染とこの型染めが主なもので、量産性のある型染が最も幅広く行われています。彫刻の技法は四種類あり、柄の種類によって使い分けます。
 一九八三年(昭和五八)四月二七日から経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。

伊勢型紙の起源
 伊勢型紙の起源については様々な言い伝えがあります。「遠い昔、子安観音寺のほとりに庵を結んでいた久太夫という翁が、不断桜の虫食いの葉を手に取り、その自然の造形美を感得し、小刀で切り抜いた。これが伊勢型紙のはじまりとなる。」という伝承が有名です。
 同じ頃の物語に「遠く足利氏の頃、荻原中納言と言う公卿が、京都の戦禍を免れる為、親交のあった観音寺法印を頼りに寺を訪れ、そのほとりに寄寓し、徒然のあまり小刀を以て花鳥を彫刻し、参拝者に土産として商ひたるが富貴絵(または富久絵)型のもとなり。」というものがあり、鈴鹿市寺家の白子山観音寺〈子安観音寺〉では、現在も伊勢型紙職人が彫った『富貴絵』が、参拝記念として販売されています。

伊勢型紙の歴史
 伊勢型紙の起源は伝説の域を出ることなく、不明と言われていますが、応仁の戦禍を逃れ、地方に分散した都の文化人により〝彫り〟の技術が伝えられ、港と参宮街道で経済活動が盛んだった白子・寺家に根をおろしたのではないかと考えられます。
 元和五年(一六一九) 新たに白子・寺家を所領とした紀伊大納言紀州藩初代領主頼宣による白子型紙の保護・奨励策により、型売商人は全国行商を行ない、大きく進展したものとみられます。
 以後、江戸における元禄文化の隆盛と、諸大名が着用した裃の「定め小紋」は、伊勢型紙の需要を高めました。
 明治に入り、維新まで伊勢型紙業界を支えて いた徳川藩制の崩壊により需要は大幅に減少しましたが、日本の繊維染色工業が発達し、婦人の小袖模様が安定した需要を保ち、明治十六年~十七年(一八八三~一八八四)頃になると、小紋が流行し始めました。
 このような傾向は、明治二七年(一八九四)頃まで続きました。その間地紙製造に欠かせない柿渋の完成と「室入り燻煙法」の発明により、型地紙の製造法は大幅に進歩しました。
 又、明治末期には陶磁器・漆器・茣蓙・硝子・製菓の型置染色といった用途に加えて、注染ゆかたの需要もでてきました。
 大正以降、技術開発や自然災害に加え、太平洋戦争により打撃を受け、戦後には皆無状態だった型紙業者ですが、昭和二十年(一九四五)の終戦と共に衣料事情が好転し、大きく回復しました。
 その後、日本の伝統的な型紙技術は京友禅・江戸小紋と並んで評価され、昭和二七年(一九五二)「伊勢型紙彫刻」が国の無形文化財に指定されました。同三十年(一九五五)に彫刻技術者五名と型紙を補強する糸入れ技術者一名が重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定をうけ文化的な価値が一躍クローズアップされ伝統技術の真髄を保持しています。
 以後十数年間、和服ブームにより順調に発展した業界も写真型の開発によって機械化が進み、また、オイルショックを契機に急激に伸びてきた「合成紙」の登場により、地紙業者は大きな試練を迎えます。
 鈴鹿市では昭和三八年から伝承者養成事業も行なわれ、一般の方の理解を深めるため、「鈴鹿市伝統産業会館」を設立し資料を展示、実演も行なっています。
 昭和五八年(一九八三)には通産省より伝統的工芸品用具に指定され、平成三年(一九九一)十一月には、「伊勢型紙技術保存会」が結成されました。
 現在は、照明器具や建築建具に用いるなど新しい活用法を模索しています。

鈴鹿市白子・寺家-港と伊勢街道により発展した伊勢型紙-
「伊勢に行きたい伊勢路がみたい。たとえ一生に一度でも」と伊勢音頭にも歌われ、多くの人があこがれた伊勢参り。
 時には500万人もの人々が熱狂的に伊勢を目指したこの道は、東海道に次いで交通量が多く、物資や文化、情報の行き交う賑やかな街道でした。また東海道、伊勢別街道、伊賀街道、和歌山街道など多くの街道と合流するこの街道は、伊勢国の幹線道路として、旅人だけでなく地元の人々にも利用されていました。
 三重県内を通る伊勢街道は、四日市市日永の追分で東海道から分岐し、伊勢湾沿いを南下し、伊勢へと至る全長およそ十八里(約70km)。白子、津、松阪、斎宮、そして伊勢へのルートは、近世にはほぼ固定され、幕府によって脇街道へと整備されました。平安時代以前は、一般人は参拝することができなかった伊勢神宮。その後、天皇・貴族の権力が衰えると、武士、庶民の伊勢参宮も一般化し、多くの人々が伊勢を目指しました。

技法「錐彫」
錐彫は、型紙の彫り技法としては最も古くから行われていた技法です。
 彫りの道具は、ごく薄い鋼板を半円筒形に打ち曲げて作ります。刃先は針の様に鋭い刃物です。
 彫刻法は、左手で錐を握り支え、右手で刃を持ってその位置を定めて型地紙に垂直に立て、左手の親指で柄の最上部を押し、中指で締めるようにして回転させ彫ります。
 俗に錐小紋の三役と言われているのは、鮫小紋や行儀小紋、通し小紋であると言われています。
 鮫小紋や行儀小紋、通し小紋は「きり彫」の中では代表的な文様です。

技法「小刀彫」
小刀彫には、引彫と突彫の二種類の彫刻技法があり、別名「彫り目」とも呼んでいます。
 引彫は、もともとは縞を彫るために発達したもので、この手法は、小刀の刃を下に向けて手前に引いて彫ります。
 突彫用の小刀は削いだように磨ぎ尖らせてあり、手法は刃先の背に左手の人差指の爪を当て、彫る方向に位置を定めつつ推し進め、右手で小刀を持ち、柄の上部を右頬にあて、小刀を上下させながら突き彫っていきます。
 一丁の小刀で一本の線を引き彫りする方法と二丁の小刀を組み合わせ二本の線を同時に彫る二丁引の手法があります。

技法「道具彫」
道具彫とは、桜、菊の花弁あるいは、角、三角などの模様の一単位の形をした彫刻刀を作り、一突きでその形を彫り抜いていく技法です。
 鍋島小紋、角通し等の細かな割付柄に多く用いられ、錐彫とも併用されるなど、その利用範囲はとても広いものです。
 道具の刃の部分は、彫刻する者が自ら作ります。薄い鋼の板を一定に切り、溝金と言う打ち板を用い、その鋼の板を金槌でたたいて曲げ、ヤスリで形を整えて作ります。
 彫刻方法は、左手でしっかりと持ち右頬にあて、右手で模様を彫る位置を定めて腰のバネを利用して突きます。

「型地紙の製法」
伊勢型紙には、高度な彫刻技術と共に、強靭で伸縮しない質の紙が必要となります。この紙を型地紙とよび、美濃和紙等を柿渋でベニヤ状に張り合わせ、燻煙と乾燥による伝統的な製法で作られます。
一、法造り(ほづくり)
紙の大きさ、厚さ等により和紙の選定を行い規格寸法に裁断する。
二、紙付け (かみつけ)
裁断した和紙を紙の目に従って縦、横、縦とベニヤ状に三枚を柿渋で貼り合わせる。
三、乾燥
紙付けの終わった紙を渋が浸透する間2~3日ねかし、檜の張板に貼り、天日にて乾燥させる。
四、室干し (むろがらし)
乾燥した紙を室 (燻煙室)の中へ吊り下げ、オガ屑にて約一週間いぶし続ける。
五、乾燥及び室干し
燻煙した紙を柿渋に浸し、再度張板に貼り、乾燥させもう一度室の中へ吊るし一週間程煙でいぶす。
六、仕上げ及び選別 室から出した紙の表面に附着している灰等を良質の植物油にて拭き取った後、選別して不良品を除き型地紙が出来上がる。 ※これの所要日数は天候の関係もあり、約1~2ヶ月かかります。

彫刻刀
図柄によって何種類もの彫刻刀を使用するため、職人はたくさんの数を所有します。また彫刻刀は職人自身が制作し研磨も行います。職人の間で道具の貸し借りが行われていたため、柄には屋号が刻まれています。使わなくなった道具を譲り受けることもあったようで、大杉家に残る彫刻刀には、大杉家以外の屋号が刻まれた彫刻刀が複数あります。

小本(こほん)
小本とは、伊勢型紙の図柄製作の基本となる原本のことです。図案の中からパターンとなる部分を転写し、これを彫って作ります。この小本を上下左右へ移動させながら型地紙に図柄を写します。小本が完璧でないと柄の繋がりが乱れてしまいます。型紙製作において少しの狂いも許されない非常に重要な工程が小本製作です。染色の道具としての型地紙を一般の方が目にする機会が少ないように、小本を見ることはほとんどないので、こちらは貴重な資料です。
江戸時代の小本(大杉家所蔵)
大杉家には数えきれないほど多くの小本が保管されています。古いもので享保3年(1718)のものがあります。

アテバ
伊勢型紙を製作するための作業台のことを『アテバ』と呼びます。彫刻師は腕の力ではなく上半身の重みを腕に伝えて彫ります。天板に傾斜が付いているのは腰への負担を少なくするためです。

こよりの使い方
彫刻の前にデザイン画を型地紙に固定する方法
1キリで穴をあける
2こよりを通す
3かなづちで叩く
4これを繰り返す

子安観音寺
 高野山真言宗の名刹で、ご本尊に白衣観世音をおまつりし、安産、子育ての霊験あらたかな霊場として全国に知られ、参詣祈願の人々が多い。
 人皇第四十五代聖武天皇の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)年間に創建され、道證上人の開山による千二百余年の歴史を秘めた由緒深い寺院です。正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅願の論旨も受けています。

子安観音寺『不断桜』
 ヤマザクラとオオシマザクラの種間雑種で、四季を通じて葉が絶えず、秋から春にかけて花が咲き続ける、学術的にも価値が高い桜です。永禄十年、連歌師 紹巴(しょうは)が、東国に下ったときの紀行富士見道記に「白子山観音寺に不断桜とて名木あり」と記され、また観世流の貞享(じょうきょう)三年版にある「不断桜」もこの桜を唄ったもので古来より全国に有名です。
 また子安観音寺の起源によれば、天平宝字(てんぴょうほうじ)年中雷火のため焼失した伽藍跡に芽生えた桜と伝えられ本尊白衣観世音の霊験によって咲くとして尊ばれています。この不断桜の虫喰葉の巧妙な自然の紋様に着目して伊勢型紙が創られたという由来があります。
 国の天然記念物に指定されており、今年は100周年の節目のとして、3月17日、子安観音寺において記念法要が執り行われました。住職による読経や地元の謡曲グループ「鼓謡会」による「謡曲 不断桜」が奉納されました。

富貴絵(富久絵)
白子山子安観音寺千三百年の歴史息づくおみやげであり、観音様の慈悲の功徳によって咲くといわれる『不断桜』に由来。今でも伊勢型紙職人によって彫られています。おかげ参りが盛んな中世の頃には、より多様な絵柄が彫られ、広く障子や行灯の装飾などに利用されていました。

彫型画とは
 彫型画とは美術部門の紙工芸に属する『創作の彫刻絵画』です。その歴史は新しく、画面の表現には鈴鹿市の伝統工芸・伊勢型紙の彫刻技法を多く取り入れています。又、表面を切抜くことにより立体感を強調し、日本画・洋画等とはまた違った世界を創り出しています。
 現在作られている作品は、『伊勢型紙の彫刻技法を生かした絵画的な作品』と、自由な発想で創り出す『創作美にすぐれた創作作品』に大別されます。
 制作においては、画一的な型地紙 (渋紙)を用い手彫りによる繊細な線や点等で立体的・平面的な作品を作り出すために、技術重視になる場合が多くなりますが、工芸部門の創作絵画である彫型画としては、技術面もさることながら絵画的な表現に重点を置くべきだと考えられます。

伊勢型紙彫型画会 沿革
昭和50年 同志4名で伊勢型紙彫型画会 発足
昭和50年 全国公募作品展「伊勢型紙彫型画展」開催(以降毎年開催し、現在第48回展まで継続中)
昭和50年 三重国体時、両陛下(現上皇上皇后両陛下)の宿舎志摩観光ホテルにて、大杉華水前会長
作「十二神将」を天覧の光栄に浴す
昭和51年 ショッピングセンター鈴鹿ハンター展を開催(現在も継続中)
昭和52年 三重の物産展に参加(大阪上本町近鉄百貨店)
昭和55年 伊勢型紙業界で初めて大杉華水前会長が日展に初入選
昭和58年 京都新装きもの学院京都本校にて彫型画の講演と実技指導(前会長講師)
昭和59年 第10回伊勢型紙彫型画展記念展開催
昭和60年 三重県立青少年センター研修活動の一環として型紙での色紙作りに講師派遣
平成 5年 第17回全国育樹祭に於いて、皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)に大杉華水前会長作「宇治橋」を県より献上
平成 7年 秋篠宮ご夫妻に大杉華水前会長「花菖蒲」を県より献上
平成26年 北海道岩見沢市廣隆寺会館にて大杉華桜会長が講演会を開催
平成29年 京都西陣織会館にて、伊勢型紙彫型画京都展を開催
平成30年 大杉華水前会長「卒寿記念展」を開催
令和元年 大杉里奈前主幹が雅号「華桜」を襲名し、会長就任
令和2年 三重県立熊野古道センターにて、特別展示室企画展「伊勢型紙彫型画作品展~伝統に新しい風を~」を開催

伊勢型紙彫型画会の活動
1全国公募展『伊勢型紙彫型画展』を開催(毎年秋)
2会員による研究会を開催(毎月1回)
3全国公募展『伊勢型紙彫型画展』表彰式の様子
4彫型画会各教室にて展示会を開催
5鈴鹿ハンターショッピングセンターにて展示会、体験を開催(毎年秋※コロナ禍により現在中止中)
来年50周年を迎える彫型画会は、伝統と革新の共存をモットーに、今の時代だからこそ残せる新しい伊勢型紙の姿を次世代に伝えるための活動を続けています。

えほん『おふくさんの12かげつ』文・絵 服部美法
季節の移り変わりや福行事を楽しみながら、笑顔で過ごすおふくさんたちの1年の様子を描いた絵本。
作者は三重県生まれで、かつて大杉華水氏に師事し、伊勢型紙を学びました。この絵本の見返しは、大杉華桜氏が「おふくさん」の世界をイメージして制作したものです。

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