女鬼峠を歩いてきました

2023年12月27日

おすすめ熊野古道

 女鬼峠(めきとうげ)を歩いてきました。女鬼峠と聞くと、怖そうな名前だと思うかもしれませんが、江戸時代の道中案内記(ガイドブック)では「めつき峠」「ねぎ峠」などと書かれており、女の鬼が出たなどという伝説もないようです。おそらく「めつき峠」「ねぎ峠」などと言っていたのがなまって「女鬼峠(めきとうげ)」となったのではないかと思います。

 栃ケ池のすぐ側、県道沿いの登り口から公衆トイレがある相鹿瀬の集会所まで、写真を撮りながらでも約1時間で歩けました。

 左の写真は県道沿いの登り口、右の写真は登り口すぐ側にある女鬼峠ウォーキングコースの地図です。

 成川側でも相鹿瀬側でも「江戸道」という看板を何度も見かけました。どこを歩いているのかわからなくなりそうだったので、今回は登り口すぐ側にある江戸道以外は通りませんでした。右の写真は登り口すぐ側の江戸道ですが、本来の道と比べ道幅が狭く、少し急でした。他の江戸道もおそらく同じような道かと思います。

影でわかりにくくてすみません。

 伊勢自動車道の下をくぐり、成川側の女鬼峠入口に着きます。ここにも地図があります。地図を見ると女鬼峠より西側に「中女鬼峠」という峠があります。こちらは五桂・佐奈方面からの道だったようです。また女鬼峠の頂上展望台からは国束山(くづかさん)への道が続いています。ここから国束山を経て玉城町方面の山へ縦走できるらしいです。

 女鬼峠への道は上の写真のような感じで、道幅は比較的広めです。荷車一台分は通行できそうですが、すれ違いは難しそうな道幅です。

 荷車の轍跡と思われるものも残っています。それほど急ではないので、荷車でも通行できたのかもしれません。

 水飲み場跡も残っていますが、どのあたりが水飲み場かはわかりませんでした。この辺かなと勘で撮った写真です。また、切り通しの手前のこんもりした場所は茶屋があったのではないかとされる場所です。ここから展望台への道が分かれています。

 女鬼峠の象徴ともいえる切り通しです。よく見ると崩落を防ぐためという石積みも確認できます。この切り通し部分は道幅が狭くなるため、ここを荷車が通るのは難しかったのではないかと思います。

 切り通しを過ぎると名号碑と如意輪観音像2体が祀られています。

 名号碑には「南無阿弥陀仏」と彫られています。伊勢、梅香寺の僧寅載の筆とのことです。懐中電灯で照らしてみたところ左下に4文字くらいで「信知浄永」と書いてあるように見えました。意味はよくわからないのでまた調べようと思います。

 如意輪観音は2体祀られています。1体は祠の中にあります。祠の中の如意輪観音には台座正面に「三界万霊等」、向かって右面に「元文三戊午歳/西国一番/三月十三日」と書いてあります。左面は何も書いていないようで、裏面は確認できませんでした。「三界万霊」とあることからこの世の全ての生き物を供養する「三界万霊塔」として建てられたことがわかります。また、「西国一番」とは西国巡礼の第一番札所青岸渡寺のことで、青岸渡寺の本尊は如意輪観音です。建てられた当時からこの場所に祀られていたとすると、西国巡礼へ赴く人たちを意識してこの如意輪観音像を建立したのではないかと思います。

 祠の外にある如意輪観音は腕などが欠けており、見た目は祠の中の像よりも古く見えます。台座もなく、由来もわかりませんが、祠の中にある如意輪観音より柔和な印象を受けます。

 相鹿瀬側へと下りていきます。途中「江戸道」を度々見かけます。写真で見ても、少し狭くて急な感じに見えます。

 相鹿瀬へ下りてくると「大神宮寺相鹿瀬寺跡」という看板があります。天平神護2(766)年に称徳天皇により建立されたという相鹿瀬寺の跡だそうです。立派な伽藍のある寺院だったようですが、宝亀6(775)年には廃止されました。周囲から奈良時代の瓦などが出土しているそうです。今は空き地で、往時の様子は想像できません。右の写真は、茶畑と写真ではわかりにくいですが遠くの山には風力発電の風車が見えます。

 今回の女鬼峠での目的の一つは道標です。相鹿瀬に下りてきて相鹿瀬集会所までの間に、2基の道標があります。一つ目の道標は、相鹿瀬側入口の地図のすぐ横にあります。ちょうど西日が当たって何が書いてあるか肉眼では読めず、懐中電灯も役に立ちませんでしたが、以下のように書いてあるそうです。

(正面)「右 くまのみち 順礼 手引きの観音 是より十八丁」
(右面)「(梵字)国束寺観音道 峯道三十丁 田丸かけぬけ」
(左面)「天保十二年九月吉辰 願主西麓十八村郷組中」
(裏面)「神代より 國を束ぬる寺なれば 福智をわかつ 佛なりけり 當山住職 覺雄建之」

 「手引きの観音」は柳原千福寺(柳原観音)のことです。銘文から、天保12(1841)年に国束寺(くづかじ)の住職覺雄が建てたということがわかります。国束寺(度会町)は、現在は麓にありますが、戦前までは国束山にありました。中世はかなりの規模のお寺だったようですが、織田信長の伊勢進攻で全て焼けてしまい、江戸時代になり再興しました。明治以降も数々の困難があり、昭和28(1953)年に現在地に移転されました。
 この国束寺の住職覺雄という人が建てた道標ですが、熊野古道伊勢路には玉城町にもう1基あります。おそらく覺雄は熊野古道伊勢路を歩く巡礼者に国束寺にも参詣してもらうため、これらの道標を建てたと考えられます。寺の住職が建てた道標は、東紀州の伊勢路沿いでは見たことがありません。特定の寺社への参詣を促す意図をもって建てられたというのは、伊勢国側の熊野古道伊勢路の道標の特徴といえると思います。

 すぐ近くにもう1基あります。こちらは読むことができました。

(正面)右くまの道
(右面)左さんぐう道
(左面)文政八年乙酉春

 建てた人物は書いていませんが、文政8(1825)年に建てられたものであることがわかります。また、「さんぐう」とは伊勢参宮のことですが、東紀州の熊野古道伊勢路沿いでは「さんぐう」と書かれた道標は見たことがありません。伊勢方面を指す際は「いせ道」と書かれています。相鹿瀬は伊勢神宮に近く、1日あれば余裕で来れる場所です。そのため「さんぐう」と書かれているのではないかなと思います。

 以上、女鬼峠を歩いたレポートでした。今年中に伊勢国側の道標を少しでも見ることができてよかったです。お読みいただきありがとうございました。

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