石仏庵

2024年3月29日

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 今年度は毎月小ホールにて「東紀州のみどころ百選」を紹介・展示してきました。今月、筆者は玉城町原にある「石仏庵(いしぶつあん)」を紹介しています。ここには、西国三十三所の観音を模した石仏が33体祀られています。現在は地域の方々が管理されており、とてもきれいな状態です。

 石仏庵は文政8(1825)年に三河国の和尚の隠居寺として草創されたという尼寺でした。昭和23(1948)年に廃寺となり、本尊の道引観音などは原地区の光徳寺に預けられています。跡地は現在集会所となっています。(以上『玉城町史』より)

 石仏は、江戸時代に出版された『西国三十三所名所図会』の「原大辻観音庵」の絵の中で「卅三体観音」として紹介されています。絵では「卅三体観音」の前に細長い標石がありますが、これも現在、集会所入口にあります。正面には「順礼道引観世音」と刻まれており、ここからも石仏庵が西国巡礼に関連するお寺だったことがわかります。また、休憩ができる「接待所」のほか、「札納所」・「金毘羅堂(絵では「金ヒラ」)」・「行者堂(絵では「行者」)」が当時はあったようです。
 「原大辻観音庵」がなぜ「石仏庵」と呼ばれるようになったのか、そもそも原”大辻”とは何を指すのかはよくわかっていません。

標石

 石仏庵が三河国の和尚の隠居寺だったためか、三十三体の観音は三河国の人々から寄進されたものが多いです。他には地元や伊勢、現在の紀北町長島や熊野市、吉野、そして江戸から寄進された石仏もあります。真ん中に祀られた一番札所青岸渡寺の如意輪観音像を模した石仏は、見たところ「江戸通油町 丸茂屋九兵衛」が施主のようでした。調べてみると『江戸買物独案内』に同名の商人が掲載されていました。

 『江戸買物独案内』は文政7(1824)年に出版された、江戸の飲食店や買い物ができる店を紹介している本です。その中に「丸茂屋九兵衛」と掲載されていました。画像の左のページに「通油町」の「丸茂屋九兵衛」とあります。通油町は現在の日本橋大伝馬町の一部です。おそらくこの「丸茂屋九兵衛」が石仏を寄進した人物だと思われます。丸茂屋は合羽装束問屋で、羅紗(ラシャ)・羅背板(ラセイタ、羅紗より薄い)の「火事御頭巾」「袴羽織類御拵所」となっています。火消しが使う火事頭巾や火事羽織などを扱っていたようです。『江戸買物独案内』からはここまでしか情報はわかりません。なぜ江戸の丸茂屋が石仏を寄進したのかは不明ですが、原地区や周辺地域とゆかりのある商人だったのかもしれません。

 以上、石仏庵についてでした。お読みいただきありがとうございました。

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