「くまの道」「いせ道」

2023年12月20日

その他

 今年もあと残り2週間を切りました。個人的には熊野古道伊勢路(熊野街道)沿いの道標を色々と調べた一年でした。まだまだ調べきれていないですが、総括として、銘文に書かれた「くまの道」「いせ道」などの道の名前について考察してみたいと思います。

 今年調べた道標は以下の通りです。大紀町の小川口の道標以外全て東紀州のものです。伊勢国の道標はまだ調べていません・・・

①小川口の道標(大紀町) (正面)「(指差しレリーフ)くまの道」(左面)「右いせ道」

②志子道標(紀北町)(正面)「右いせ 左やま道」(右面)「明治四十五年之立」(左面)「赤羽青年団 第七支部」

③松本道標(紀北町) (正面)「東 左熊野道」(右面)「明治三十二年十月建之」(左面)「南 右伊勢道」(裏面)「西 大杉赤羽道」

④本町道標(紀北町) (正面)「是より那智山に二十四里/北 右くまの道」(右面)「西 左いせ道」(裏面)「丁巳安政四年/二月吉日 立之/世話人 伊勢屋せん/施主 小津屋とみ/宇田屋柳/嵐屋とき/田中屋とめ」

⑤加田石道標(紀北町) (正面)「此三禅定門」(右面)「文化十一戌天」(左面)「四月十七日」(裏面)「左くまのミち」

⑥一石峠の道標(紀北町)(正面)「左いせ(道)」(左面)「右くまの(道)」

⑦尾鷲の道標(尾鷲市) (正面)「左くまの道」

⑧山見茶屋の道標(尾鷲市) (正面左)「左くまのみち」(正面右)「やまみちや」

⑨三木里の道標(尾鷲市) (正面)「ひだりくまのみち」

⑩羽後峠道標(尾鷲市) (正面)「是ゟ左くまの道」

⑪賀田の道標(尾鷲市) (正面)「左熊野道 大川柳助 建之」※南輪内村誌によると正面には他に「右浅谷道」、裏面には「安政元年十一月四日津浪高さ三丈」と記されていたという。

⑫新鹿の巡礼道標(熊野市)(南面)「いせ道」(北面)「すぐ なち山」(西面)「右なち山 左いせ道」(東面)「天保二辛卯年 世話人角屋    長九郎 石工 大矢太蔵」

⑬西波田須道標(熊野市) (正面)「左なち山道」

⑭口有馬道標(熊野市) (正面)「右/くまのさん/志ゆんれい/道」

⑮有馬立石の巡礼道標(熊野市) (正面)「右ほんくう近道/左しゅんれい道」(裏面)「文政三/辰七月十一日」

⑯川瀬の道標(御浜町) 1.(正面)右新宮 左木本 道  2.(正面)右志んぐう 左きのもと※本宮道にある道標

⑰燕茶屋の道標(熊野市) 1.銘文:(像右)「右北山道」(像左)「左本宮道」(台石)「奉納本願経」(銘位置不明)「弘化三午六月日 尾呂志酒屋立之」2.(像右)「□□北山道」(像左)「左□□宮道」※本宮道にある道標

 まず、「くまの道(くまのみち)」と書かれることが多いことがわかります。「熊野街道」などと書かれたものは一つもありませんでした。特に尾鷲市や紀北町の道標は「くまの道」ばかりです。また、熊野と反対方向を指す場合は「いせ道」と書かれています(本町道標、一石峠の道標)。本町道標の場合、ここから新たに伊勢に向かう街道が始まるのではなく、曲がり角になっているだけで、一本の「熊野街道」です。このことから、「くまの道」という言葉は、道の名前そのものを表すというより、熊野へ向かう道だということを示しているのではないかと思います。仮に「熊野街道」を方向により「くまの道」「いせ道」と呼び分けていたとすると、当時の人々の「道」の捉え方は現在の私たちと異なるといえます。現在の私たちは「国道42号線」「国道311号線」などと道を一本の線のように捉えているのではないかと思います。しかし当時の人々は、たとえ一本の道であっても、自分たちが住んでいる場所から見れば、熊野方面は「くまの道」、伊勢方面は「いせ道」と全く別の道として認識していたとも考えられるのではないかなと思います。以前のブログでも道の名前について書きましたが、道の呼び名は要検討の課題として、来年も引き続き調べます。

 また、「熊野」という地名の使われ方にも注目すべきです。尾鷲市までは「くまの道」とされていますが、熊野市からはバリエーションが増えます。新鹿の巡礼道標では「なち山」と書かれ「くまの」とは書かれません。西波田須の道標もずばり「なち山道」となっています。口有馬道標(花の窟の前)は「くまのさん/志ゆんれい/道」と、「くまのさん」つまり「熊野三山」を指しており、「巡礼」のための道であることもわかります。また、浜街道と本宮道に分かれる重要な分岐点にある有馬立石の巡礼道標は「右ほんくう近道」「左しゅんれい道」と熊野本宮大社への近道であることと、こちらも「巡礼」のための道であることを示しています。このように、熊野市の熊野古道伊勢路沿いに残る道標には「くまのみち」と書かれているものは一つもありません。いずれも「なち山(熊野那智大社)」「ほんくう(熊野本宮大社)」と具体的な行先が示され、「巡礼」者が通る道であることを意識して作られているように感じます。単純に熊野三山に近づいてきたから具体的な名前が出るようになったとも考えられますが、「熊野」とはどこからどこまでの範囲を指すのかという問題も含んでいるのではないかと思います。道標の「くまの」の表記を見る限り、現在の尾鷲市までは「熊野」の範囲から少し外れていて、熊野市からは「熊野」の範囲と認識されていたと考えられます。当時としても「熊野」の範囲はゆらぎがあったのでしょう。また、尾鷲市や紀北町は戦国時代までは志摩国の一部でした。これも「熊野」の範囲が曖昧な一因となっているのではないかとみられます。

 以上、長々と難しい話でしたが、今年の総括として道標の銘文について考察しました。的外れなことを書いているかもしれませんが、まだ検討中ということでお願いします。

お読みいただきありがとうございました。

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