はまぐり石

2023年9月9日

その他

 9月2日より企画展「伊勢路の石仏と道標」を開催中です。熊野古道伊勢路沿いにある石仏や道標について解説しています。今回は企画展では取り上げられなかった石仏をご紹介します。

 紀北町の真興寺にある、「はまぐり石」です。はまぐりの形に似た自然石に観音坐像を浮き彫りし、銘文を記したものです。横幅は1m以上と大きく、紀北町指定有形民俗文化財です。観音坐像も銘文も写真ではよくわからないと思います・・・はまぐりの形に似ているのはわかるのではないでしょうか。

 銘文は以下の通りです。

(正面)「順れい/手引観音/蛤石/尾州/名古屋/船入町/杉屋/佐太郎/南無阿弥陀仏」

(裏面)「天保十一/庚子/五月/釋了義/為菩提」

 銘文から、天保11(1840)年に名古屋の杉屋佐太郎という人物が「釋了義」の供養のために建てたものであることがわかります。

 このはまぐり石は江戸時代後期に出版された「西国三十三所名所図会」でも「川岸の堤に蛤蜊石の観音あり 近年尾州の人建る所なり」と紹介されています。当時から珍しいものだったようです。

西国三十三所名所図会 赤線の部分

 名所図会の案内の通り、元は銚子川左岸の熊野街道に沿った人家付近にありましたが、堤防工事などのため旧位置からの移転を余儀なくされ、真興寺へうつされました。

 はまぐり石で注目すべきは造立者です。「尾州名古屋船入町」の「杉屋佐太郎」となっています。この「杉屋」は、愛知県を中心に三重県、岐阜県などの様々な寺社に石造物を寄進している一家です。初代の佐助は、濃州石田村(岐阜県羽島市)の生まれで、名古屋へ出て大店に奉公し、別家を許され杉屋の基礎を築きました。2代佐助は、米穀問屋を営んだことが石碑などから判明しています。2代佐助は天保3(1832)年以降約30年間にわたり各地に石造物を寄進し、80歳近くまで長生きしたようです。40基以上を寄進していたとみられ、その全容はいまだ明らかではありません。
 2代佐助の息子が、はまぐり石を造立した「佐太郎」です。はまぐり石の銘文にある「釋了義」とは、番頭の「魚住与吉」という人物のことだそうです。与吉は15歳から亡くなるまでの32年間杉屋に奉公した人物で、佐太郎と与吉は20以上年が離れており、佐太郎にとって与吉は親のように慕っていた存在だったのではないかと考えられています。杉屋のために尽くしてくれた与吉を供養するため、佐太郎ははまぐり石を造立したのです。はまぐり石以外にも、佐太郎が建てた与吉の供養碑は各地に残っています。しかし、佐太郎は与吉が亡くなって数年後、父親の2代佐助に先立ち、25歳と若くして亡くなります。そのため、佐太郎が寄進した石造物の数は2代佐助に比べると少ないようです。

 では、佐太郎はなぜ名古屋から遠く離れた紀北町にはまぐり石を造立したのでしょうか。既に指摘されていますが、米穀問屋だった杉屋の商圏の南限だったからだと考えられます。東紀州地域は、米がそれほどとれないため、他所から米を移入する必要がありました。米穀問屋だった杉屋が東紀州地域に米を売っていたことはあり得ることだと思います。

 ちなみに、杉屋が寄進した石造物は、三重県内ではほかに鈴鹿市の子安観音、関(亀山市)の地蔵院にあるそうです。この二つ以外にもまだまだたくさんあると考えられますが、いずれにしろ、名古屋に近い北勢地域(三重県の北部)に多いと思われます。東紀州地域では、はまぐり石以外に杉屋が寄進した石造物は見つかっていません。おそらく東紀州地域には、はまぐり石以外に杉屋が寄進した石造物はないと思いますが、もしあるとすれば街道沿いかなと思います。

 以上、はまぐり石についてでした。お読みいただきありがとうございました。

参考文献:植村明著・家崎彰編『封堠第27号 はまぐり石』海山郷土史研究会、平成23(2011)年
※海山郷土史研究会の一員だった中村英利氏が、はまぐり石と杉屋について調査されたそうです。封堠第27号は中村氏の調査をもとに書かれています。

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