木賃宿

2024年1月10日

その他

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 江戸時代の道中日記の内容は、日付・地名・距離のほか、宿泊した宿と宿代が書いてあることが多いです。道中日記を書いた人たちは、村で講を組んでお金を出し合い積み立て、村や講の代表として旅をした人たちです。そのため、村や講に対して旅の内容や使ったお金を報告する必要があり、宿代をきちんと書いている場合が多いのです。また、道中日記とは別に「小遣い帳」などを作り、より詳細な収支を報告している場合もあります。

 熊野古道伊勢路を歩いた道中日記の宿名や宿代を見ていると、泊まっている宿には「旅籠」「木賃宿」の2種類があり、旅籠に泊まっている人は旅の間ずっと旅籠に泊まり、木賃宿に泊まっている人はずっと木賃宿という傾向がみられます。木賃宿とは、薪代(木賃)のみを払い、持参した米などで自炊するという宿です。旅籠よりも安く泊まれますが、食事付きの旅籠と違い自炊する必要があるのです。治安も旅籠の方が良かったようです。よって木賃宿に毎日泊まっている人は、旅籠に毎日泊まるようなお金は持っていなかったと考えられます。

 道中日記から、熊野古道伊勢路沿いで木賃宿に宿泊したものを5つピックアップしてみました。「木銭」が「木賃」のことで宿代です。

 日付宿名()内は地名宿代・米代
① 寛保3(1743)年閏4月23日 木銭20文・米62文
  閏4月24日 木銭16文・米62文
  閏4月25日藤屋清左エ門(馬瀬)木銭24文・米56文
  閏4月26日 木銭13文・米52文
  閏4月27日 木銭13文・米56文8合
 ②安永6(1777)年12月29日松田平左エ門(栃原)木銭20文・米68文
  1月1日森屋佐左エ門(駒)木銭22文・米58文
  1月2日もめんや忠七(粉本)木銭16文・米72文
  1月3日大和屋理八(二木島)木銭17文・米70文
 ③文政2(1819)年閏4月7日松屋(原)木銭40文・米75文
  閏4月8日 木銭40文・米75文
  閏4月10日井筒屋(三木里)木銭32文・米80文
  閏4月11日 木銭35文・米80文
 ④天保10(1839)年7月14日塚本や(原)木銭64文・米139文
  7月15日井筒や半兵衛(駒)木銭50文・米135文
  7月16日塩屋弥三右衛門(粉本)木銭40文・米130文
  7月17日大和屋平助(新鹿)木銭35文・米150文
 ⑤慶応2(1866)年2月16日かとや(相鹿瀬)木銭24文・米66文
  2月17日ゑびすや兵助(三木里)木銭20文・米63文
  2月18日伊勢や源兵衛(三木里)木銭20文・米75文
  2月20日中嶋や武平治(阿田和)木銭24文・米74文

①〔道中日記〕 『大森町郷土史』(大森町、1981年)
②参宮道中記 『寒河江市史編纂叢書』23(寒河江市教育委員会、1977年)
③伊勢参宮道中記 『六ヶ所村史 下巻Ⅱ』(六ヶ所村史編纂委員会、1997年)
④〔伊勢西国道中日記〕 渡辺紘良「天保十年伊勢参りの記録(四)」(『Bulletin of General Education Dokkyo University School of Medicine』11、1988年)
⑤道中帳 二戸市史編さん室編『旅へのいざない』(二戸史料叢書、2003年)

 1文は現在の30円くらいといわれています。よって、1泊600円~1200円くらいとなります。また、米は宿泊した晩や翌日の昼食分も作れる量を買っていたと思われます。上の表を見ると米代は木賃の約3倍の値段だったようです。米代を合わせると1泊3000円前後で宿泊できたということになります。

 江戸時代は260年間あり、物価も変動します。宿代もどれくらい変わるのか気になりましたが、1743年~1866年の約120年間でそれほど違いはありません。しかし、天保10(1839)年は他の年の倍くらいの値段です。ちょうど倍くらいなので、複数人分の値段を書いているのかもしれません。もしくは、天保10年だけは真夏であるため、季節による違いかもしれません。
 宿泊した木賃宿も全部バラバラですが、値段がそれほど変わらないことから、街道沿いの木賃宿は値段が統一されていたのかもしれません。

 このように値段を比較する際は、史料が多ければ多いほど、より正確な値段がわかります。宿代も、もっと道中日記を読んでいけば、時期による傾向や泊まった場所による違いなど、様々なことがわかると思います。

 以上、木賃宿についてでした。お読みいただきありがとうございました。

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