笈摺の色

2024年1月25日

その他

 江戸時代、伊勢神宮の参拝を終えた西国巡礼の巡礼者は田丸(玉城町)で巡礼衣装を整え、熊野古道伊勢路を歩きました。巡礼衣装といえば笈摺です。笈摺とは、着物の上に着る袖のない羽織のようなものです。下の画像は常設展示室に展示してある笈摺です。右は江戸時代(天保14(1843)年)に実際に着用されていた笈摺です。今の長野市に在住していた甚左衛門という人のものです。左は現在のものです。

 笈摺でよく質問されるのは色の違いです。前出の画像のように、全て真っ白のものと両脇が赤いものがあります。この他、両脇は白で真ん中が赤という場合もあります。このような色の区別があるのは、両親がいる人は真ん中が白で両脇を赤、片親の人は真ん中が赤で両脇を白、両親ともにいない人は全て白と、親の有無で色が決められていたからです。なぜ親の有無で色が変わるのか、その理由はよくわかりません。またいつ頃から始められた習俗なのかもよくわかっていません。おそらく江戸時代、巡礼者が増えるにつれて、このような色の区別の作法が出てきたものとみられます。

 こういった作法は江戸時代の道中案内記(ガイドブック)にもイラスト入りで書いてありました。いくつか見てみます。

『西国順礼道しるべ』人間文化研究機構国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

 まず、元禄3(1690)年に出版された『西国順礼道しるべ』というガイドブックです。数あるガイドブックの中でも古いものです。「おゐずるの書やう如此」と笈摺の書き方が書いてあります。ここでは色の区別などは書いていません。

『西国順礼細見記』

 続いて『西国順礼細見記』という寛政3(1791)年に出版されたガイドブックです。こちらには笈摺のイラストの下に「両親あるハ両わき赤なり」と色の区別について書いてあります。

『西国順礼道中細見大全』人間文化研究機構国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

 次に『西国順礼道中細見大全』という文政8(1825)年に出版されたガイドブックです。こちらにも笈摺のイラストの下に「両親ある人ハ 両わき赤にする也」と書いてあります。

『西国順礼道中記』

 最後に『西国順礼道中記』というガイドブックです。こちらは年代不明ですが、おそらく19世紀以降に出版されたものと思われます。こちらは特に色の区別については書いていません。

 以上、道中案内記を4冊見てみましたが、古いものには笈摺の色の区別については特に書いていませんでした。色の区別について解説する道中案内記でも片親の場合などについては書いておらず、両親がいる場合のみ両脇を赤にするようにとしています。

 では実際に当時の巡礼者は赤い笈摺を着ていたのでしょうか。嘉永6(1853)年に出版された『西国三十三所名所図会』には、赤い笈摺を着ていると思われる女の子が描かれています。

『西国三十三所名所図会』

 木本湊(熊野市)の様子を描いています。下の方に描かれている3人の巡礼者のうち、真ん中の女の子の笈摺は両脇が黒くなっています。これは両脇が赤いことを表しているとみられます。両脇が赤いということは両親が生きているということなので、あとの2人はこの女の子の両親だろうと思われます。

 笈摺の色の区別について見てきました。笈摺の色は、おそらく最初は区別はなかったと思われますが、巡礼や旅に出る人が増えてくると、両親の有無により色の区別をするようになったと考えられます。そしてそれは、ガイドブックに書かれていることや絵にも描かれていることから、当時の人々に広く受け入れられていたとみられます。近代になり巡礼が歩きの旅ではなくなるにつれ、この色の区別もなくなったのではないかなと思います。ただ、なぜ両親の有無で赤に染めたり染めなかったりするのか、なぜ赤色なのか、その理由はよくわかりません。

 以上、笈摺の色についてでした。お読みいただきありがとうございました。

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