道中案内記での女鬼峠

2024年1月31日

その他

 女鬼峠を歩いたスタッフブログで、女鬼峠が江戸時代の道中案内記(ガイドブック)では、「めつき峠」「ねぎ峠」などと書かれていたと書きました。今回は実際に江戸時代の道中案内記で女鬼峠がどのように書かれているのか見ていきます。

 道中案内記は「田丸より原へ 一里」「原より相鹿瀬へ 一里半」などと村から村への距離が書かれ、その村から村の間にどんな峠や追分(分岐)、お寺や神社などの見所があるかなどを書いています。女鬼峠は「原より相鹿瀬」の間にある峠なので、「原」や「相鹿瀬」などと書かれた辺りを読んでみます。

 当センター所蔵の道中案内記を7冊ご紹介します。年代がわかるもののうち、古いものから順に見ていきます。まず、明和4(1767)年に出版された道中案内記です。この道中案内記は表紙がなくなってしまっており、正式な題名がわからないため、ここでは〔西国順礼案内記〕と仮に題名をつけます。

〔西国順礼案内記〕明和4(1767)年

 赤線の部分が原から相鹿瀬の間までの記述です。(以下全ての道中案内記で赤線部分を解読しています)

「此所ゟ右ハかうやごへ(高野越え)左りハやき山なち山(八鬼山那智山)迄丗八里(38里)今ハ道よし」

と書いてあります。女鬼峠のことは何も書いておらず、重要な追分について書いています。この追分は、多気町野中の和歌山別街道との分岐(野中の追分)のことを指しています。和歌山別街道は野中から多気町丹生を通り、飯南町粥見で和歌山街道に合流する道で、和歌山と田丸を結ぶ道です。この道中案内記では、和歌山別街道方面へ行かないよう追分を記す一方で、女鬼峠のことは何も書いていないということがわかります。

 次に安永2(1773)年に出版された『西国順礼道中杖』を見てみます。

『西国順礼道中杖』安永2(1773)年 下の画像へ続きます。

「このところよりみぎハかうやごへなり なちさんへ六十二り これハやきやまこへなちへ三十八り ミちよし」

 こちらも野中の追分のことのみで、女鬼峠のことは書いていません。また「なちさんへ六十二り」とあるのは明らかにおかしいので、高野山の間違いかもしれません。高野山だとしても62里は遠すぎる気がしますが・・・

 3冊目は寛政3(1791)年に出版された『順礼道中記 全』です。

『順礼道中記 全』寛政3(1791)年

「すぐ(まっすぐ)ハかうや道 左くまの」

とだけで、女鬼峠の記述はありません。「まっすぐ」と「右」の違いがありますが、野中の追分は曲がり角の角度的に「まっすぐ」という表現でも問題ないような追分です。

 4冊目は同じ寛政3(1791)年に出版された『西国順礼細見記』です。

『西国順礼細見記』寛政3(1791)年

「村はなれて右ハ高野みち 左り立石くまの道」と野中の追分を説明しています。

 5冊目は約50年後の天保11(1840)年に出版された『西国順礼道中細見大全』です。この道中案内記は、数ある西国巡礼の道中案内記の中で最も内容が充実したものです。こちらは女鬼峠のことが書いてあります。

『西国順礼道中細見大全』天保11(1840)年

「是よりめつき峠 道急ならざれ共 上下廿丁計(20丁ばかり) 平山にて甚ださひし(さびしい) 朝夕夜道を慎しむべし」

 女鬼峠は「めつき峠」と書かれています。また、道は急ではないが寂しい道なので、朝夕夜はここを歩くことを避けるようにと注意しています。当時はあまり人が通らない峠だったようです。女鬼峠のすぐ隣には「中女鬼峠」という峠があり、五桂・佐奈方面からはこの峠を通るようだったので、すぐ近くに二つ峠があることで人が分散していたのかもしれません。ちなみに野中の追分のこともこの赤線部分の手前にきちんと書いています。この道中案内記は他の道中案内記と比べると、著者が実際に自分で歩いた経験を基に書いているという感じがします。

 6冊目は年代不明ですが、その内容から『西国順礼道中細見大全』の後に書かれたとみられる『西国順礼道中記』です。この道中案内記は一般には売られておらず、京都の宿屋が客に無料で配っていたとみられるものです。

『西国順礼道中記』

「次に鳴川村 これよりめつき峠廿丁計 平山にて甚たさびし」

 内容としては、『西国順礼道中細見大全』を少し簡略化したようなものになっています。この道中案内記はこのような『西国順礼道中細見大全』を簡略化したとみられる記述が多くみられるため、『西国順礼道中細見大全』よりも後、もしかしたら明治になってからのものかもしれません。

 7冊目は明治12(1879)年に出版された『西国順礼旅便利』です。

『西国順礼旅便利』明治12(1897)年

「此間にさか有 ねぎとうげといふ」

 と書いてあります。この「ねぎ峠」が女鬼峠のことです。ちなみに野中の追分のことも書いてあるのですが、「原より相鹿瀬」の部分ではなく、「田丸より原(大辻)」の部分に書いてあります。明治になってから熊野街道は路線変更などされますが、明治12年はまだ何もなかったはずなので、多分間違いだと思います。

 最後に嘉永6(1853)年に出版された『西国三十三所名所図会』も見てみます。道中案内記はハンディサイズで持ち運びを想定した本でしたが、名所図会はシリーズものとして何冊も刊行され、ガイドブックというより家で読むものでした。そのため、道中案内記よりも名所の説明は詳しいものになっています。

『西国三十三所名所図会』嘉永6(1853)年

「次に鳴川村を過てメツキ峠にかかる 上下二十町許(ばかり)平山にて険阻ならず 然れども往来少く道すじさみし」

 こちらも「メツキ峠」となっています。内容も『西国順礼道中細見大全』とかぶります。

 色々見てきましたが、「女鬼峠」は「めつき峠」「ねぎ峠」と書かれ、「女鬼峠」「めき峠」などと書かれた道中案内記はありませんでした。また、おそらく、道中案内記における「女鬼峠」の初出は『西国順礼道中細見大全』ではないかと考えられます。当センター所蔵の『西国順礼道中細見大全』は天保のものですが、実はこれは増修版で、初版は文政8(1825)年に出されたものです。文政8年のものも確認しましたが、女鬼峠に関しては内容は全く同じでした。

西国順礼道中細見大全(文政8年) 人間文化研究機構国文学研究資料館(CC BY-SA 4.0)

 よって、文政8(1825)年の『西国順礼道中細見大全』で「女鬼峠」が紹介されて以降、他の道中案内記でも「女鬼峠」を紹介するようになっていったと考えられます。『西国順礼道中細見大全』より後に出版された『西国順礼旅便利』『西国三十三所名所図会』や『西国順礼道中記』の内容は、道が急でないこと、距離、そして寂しい道であることを書いており、『西国順礼道中細見大全』の記述以外の情報は書かれていません(『西国順礼旅便利』は「ねぎ峠」ですが)。このことからも、文政8(1825)年の『西国順礼道中細見大全』が「女鬼峠」の初出であるといえるのではないかと思います。

 以上、女鬼峠の道中案内記での記述について考えましたが、実は道中日記では「女鬼峠」という記述をまだ見つけることができていません(あくまでも筆者は)。道中日記は道中案内記を参考に書いている部分が多いので、女鬼峠と書かれていてもおかしくないのですが、意外にも書いている人はそれほど多くないのかもしれません。道中日記ももう少し探ってみたいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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